脱領域

深澤直人さんの「ありそうでないもの」展トーク第2弾。
三宅理一さんを迎えて「デザインの出発点」メモ。
 
20世紀評価されなかった内的デザインが今新しい。
近年、デザインは外的に機械化され、既に確立されているもの。
故に、手の込んだプロセスが美しいという概念事体が
現在ではものすごく欠落してしまった。
だからこそ、過去のデザイナーが試行錯誤によって
創りだしたものは今、愛しい。コルビジェイサム・ノグチ
 
再評価は25年周期のスパイラルでやってくる。
25年で世代がほぼ交代するために、一度評価された、
もしくはかつて評価されなかった産物は、時代の変化に
応じて再び新しい体験として評価される。
この周期の長さについては三宅さんの自論であるが、
そこに光をあてると、不思議と浮かび上がり輝く。
 
見えないけれどもみんな共通して思っているものを
代表してつかんで具現化している確信。そこに限りなく
自分の存在を消したいという欲望がある。究極、風が
創りだした砂の模様のごとく、至極個人の内面の欲望
によって創造されたものに主体を残さない。能動的な
行為に自分をなくしたい。すなわち脱領域。
しかし結果として、その作品群はものすごく個性が
反映されたものとなる。
 
[過去]無印良品深澤直人
[現在]無印良品深澤直人
 
デザインは客観的でなければならない。関係性をデザイン
する。ところが建築は主観的なものでもいい。
どうしてもデザインの手法で建築にトライすると破滅して
しまう自分がいる。その点、ジャン・プルーヴェは
デザインと建築を同じ視点でやっている。それは現代の
建築事体が、CAD、図面など抽象化されたコミュニケーション
ツールによって確立されてしまっているが故に、本来
内的な論理が形を形成するはずのものが、外的なもので
片付いてしまっている。
 
人はこれが好きだと言いたい生物である。
しかし好みが固定してしまうことを嫌う。固定することから
逃げたがる生物でもある。いまこれが好きだと言っていても
3年後、社会の変化に応じて趣向は変わる。つまり浮気をする。
人間は絶えず天邪鬼である。まさに幽体離脱体験。この二面性
はデザインにおいて主観を排除するために必要不可欠。
 
普遍的に人が好きな形、究極の形(デザイン)はあるのか。
ずっとあると思っていた。しかし形(デザイン)は関係性に
因るとろこが大きい。社会は流動している。だから普遍的な
ものはあり得ない。いや、だから普遍的なものが動しているのか。
模索中である。かつて人間の主観をコンピュータによって統計
した結果、マシュマロのような直方体の角Rが最も好まれている
究極の形であるという番組を見たことがあるが、鵜呑みにしない
方がよいだろう。
 
[主観]流動的な社会をmixiは巧妙に再現している。
たえず変化している。何か己を変えるものごとが
起こっているという意味でmixiのデザインは巧妙
と思う。故に過去ログ5分以内よろしく殺到という
のも頷ける。
 
[主観]私の脱領域
デジオ。あたかも人の脳内に入り込み世の中、
もしくは己を客観視している行為。コンピュータの
中の脱領域。田舎時間。都会生活を田舎から客観視
している行為。日常と非日常の交流。
物理的、身体的な脱領域。
 
[主観]忙しいと人は考えようとしなくなる。
考えることはつらい。だから簡単な作業に没頭した方が
楽でしかも仕事した観があるために人はそちらに流れる。
やがて時が経ち、何も進んでいないことに気がつく。
人は毎日、物事を考える第2の人生が必要である。
 
[主観]文章を書くことで思考は整理される。
このブログは僕にとっての脱領域。脳内のシナプス
言葉に置き換えて公の場に置いてみる。つまり己を
客観視するという行為。うーむ。今回はちと難しい。
まとまらん。しかしその脳内の状態をそのまま公に
する行為。これまさに脱領域。
 
「自分プロデュース」術―どうしても、すぐ変わりたい人へ (PHP文庫)
深澤さんのお話を聞きながら、先日読み終えた
おちまさとの「自分プロデュース」術と妙にシンクロ
していることに気づく。この2人近いぞ。
早速、2人の対談をこれまた自分の頭で妄想するという
ミーハーっぷり。でもその脳内に繰り広がる世界は
まさに己にとっては脱領域。