現実と消化

無性に街を歩きたくなることがある。
しかも夜の住宅街を無我夢中で歩く。
それぞれの家庭から幸せな暖かい光が漏れ
晩御飯の匂いがする。
お、今日はカレーか。
(毎日どっかしらの家庭からカレーの匂いがするものだけど)
 
おそらく放火魔も同じ気持なのかも知れない。
僕もマッチでも持ち出していれば
とっさに火をつけてしまう一歩手前まで
心が病んでいるのかも知れない。
でも、僕は他人の心を傷つけることを至極嫌う。
だから、火をつけることなどはしない。
 
人間誰もが苦しんでいる。
でも、他人の苦しむ姿より、幸せな姿の方が
どうしてもクローズアップされてしまう。
人間誰しも己が可愛いもので
苦しむ自分を他人にさらけ出す為には
ある一定の距離と勇気が必要だ。
もし、そんな他人の苦労を知ったとき
人は感動をするのだろう。
もし、そんな他人が己のことを否定したとき
人は悪意を懐いてしまうのだろう。
 
「殺したい」という言葉が11歳の少女から
あたかもビデオゲームのようにリセットできる
かのごとく、何のためらいもなく発言される。
なぜ、あんなことをしたのだろうと
その少女は他人の出来事のようにあの事件を振り返る。
仮想と現実が判断できなくなってしまった。
メディアがそう洗脳したのか。
この消化の歯車に巻き込まれたのか。
それとも己から身を投じているのか。
何かが狂っている。
 
今日も、どこかしらで人と人が憎み苦しんでいる。
でも、歩けど歩けど、そんな様子は伺えない。
あたかもあの事件と己の間には至極距離があるのか、
もしくは高い壁があるかのごとく
その声は聞こえない。何も感じることは出来ない。
でも、もし僕がナイフを振り回せば
その距離は一気に縮み、その壁は己に崩れ落ちる。
己が知らないだけで、ものすごく身近で
あの出来事は起こっているのではないか。
 
そんな思いで、儀式のように
ハナレグミの「家族の風景」を聞きながら
涙を流し、己の家へと歩いて帰った。