農業は都会人にとってエンターテイメントである。

田舎時間

田舎時間4回目の参加にしてはじめて「働いた」と言えることのできる充実感がある。農業の醍醐味を参加者に体験してもらいたいという長沼さんの気遣いもあるが、この充実感はいったい何なのだろうと考えてみた。
 
第1に、人は視点に高さと広さを与えることで新しいものごとに気付くことができる。例えば、スーパーで枝が付いているみかんをみつけたとき。もっと言えばその枝に葉っぱが付いていたときの喜びは特に都会人の誰もが味わう要素である。みかんに枝がついている。葉っぱがついていることはごくごく当たり前なのに、いつの間にか都会生活ではめずらしいことになってしまっている。便利を追及するあまり、その代償があることをついつい忘れがちのようだ。恥ずかしながらリンゴを幹からもぎとる感触を30歳にしてはじめて体感した。こんなに歪で愛らしい形をしているリンゴたちの存在を今まで無視していた己に気付かされた。都会のスーパーで見かける個性のない整ったリンゴたちは1割から2割程度だろうか。果樹園から我々の口に到るまでの過程で様々な情報がそぎ落とされ、世の中で優秀と呼ばれているらしきその果実たちはあたかも「私たちがリンゴの全てよ」と言わんばかりに真赤に日焼けした肌を主張する。果樹園にそんな赤いリンゴはない。真赤に日焼けしているならばその過程を疑うべきだ。リンゴの木を見上げ、そして見下ろし、個性豊なリンゴをモクモクともぎ続ける。この土、この水、この空気、この樹木、この幹、この葉っぱ、この匂い。目の前に生っているリンゴの形にはそう生るべくして生った原因がある。その結果を五感で体感しもぎ採ったリンゴをその場でかじり味う。ジュウっと湧き出る果汁が口の中に広がり、その体感を確信へと導いてくれる。くどいがもう一度言う。人は視点に高さと広さを与えることで新しいものごとに気付くことができる。
 
第2に、人はひとと出会うことで、そのひとのことが好きになる。上山に悪い人はいないのではと疑いたくなるほど、出会うひと、出会うひと好きになる。出会う夫婦、出会う夫婦がまた絶妙なバランスなのである。そんな偉そうなことが言える立場ではないが、不便な農業を営むためには夫婦の協力は必要不可欠。その日頃の助け合いが絶妙なバランスに成長していくのであろう。どうやったらそんなに爽やかに生きていけるのだろうか。と尋ねたところで、そんな当たり前のことをいまさら問われても良い答えは返ってこない。ごくごく自然のことなのに都会人からしてみれば、それは神業のごとく見えてしまう。どちらが何を主張するでもなく、気持の良い風とともに流れる時間。まさにあうんの呼吸。まるで我子のような思いやりを授けられ、我々はふと気付く。またこの地に帰ってきたい。帰ってきて、またこのひとびとと触れ合いたいと。便利な社会は作り手と消費者を欠け離しがちである。ミュージシャンが楽曲を制作し、監督が映画を制作するように農家も果実に魂を注入している。なのになぜ、人として当たり前のコミュニケーションが疎外されてしまったのだろう。これは間違っているのではないか。その誤りを確認したくて幾度も上山に来ているのかも知れない。そしてひとに出会いその誤りが確信であることを知りほっとする。上山で食べるものは全ておいしい。確かにおいしい。でもそこには温かい作り手のぬくもりがさらに美味へと近づけてくれているのであろう。くどいがもう一度言う。人はひとと出会うことで、そのひとのことが好きになる。
 
第3に、人は身体を動かすことで、その身体性を再確認する。初参加から感じていたことであるが、上山で出会う方々はみな手がとてもきれいである。きれいというのは手タレのようなか細い都会のとは違う。程よく肉厚で程よく硬い爪。まさに使い込まれたきれいな手をしている。土と水と日頃触れている環境が身体に影響しているのであろう。身体の中で最も脳に刺激を与えるセンサーは実は手である。その手を使い込むことで人は賢くなるのである。視覚に騙された都会人にとってか細い手を美しいと誤解していることこそ致命的な欠陥だ。もちろん農作業はしんどい。身体もものすごく疲れる。しかし都会の疲れとはどことなく違う快感がある。身体を使うことの喜びがある。都会の視力に偏った疲れとはえらく違う。翌朝、顔を洗って鏡を見ると、穏やかな己の顔に驚く。1日中椅子に座り頭だけをフル回転させようとしている都会人にとって、脳が身体の一部であることを再確認している瞬間なのかも知れない。日頃忘れていた刺激が脳には心地よいのだろう。まさに歪んだ体のリハビリテーションなのである。くどいがもう一度言う。人は身体を動かすことで、その身体性を再確認する。
 
文字の情報が増える一方、そぎ落とされる身体的情報。そんな日常から離れて農作業を体験しかつての人類が味わっていた未知の発見に感動する。つまりは農業は現代の都会人にとっての「エンターテイメント」になり得ることを証明しているのではないだろうか。
私はその確信を求めて、これからも上山に通い続ける。