距離感と温度差

A: 遠くの村で何かとてつもないことが起こったらしい。
B: へー。
A: そこの村にはうちの村の人々も何人か行っていて、その被害に遭ったらしい。
B: ほー。
A: しかも、その中にうちの村長がいるらしい。
B: それは大変だ。急いで救援に行かなければ。
 
なんてやり取りが
海外での被害報道における「なお、日本人の被害者は...」という
言葉を聞くたびに僕の脳裏で再現される。
  
当事者でないし、己の身体に何も起こらないから
tele-visionによって映し出される地球上の全ての出来事に対して
身近に考えろということは難しい。
だから悲しいことがあれば、当たり前のように悲しむべき
ことなのに身体は痛くも痒くもないから、悲惨な映像は
ブラウン管に垂れ流される中、子供たちは悲しいことは
悲しくないんだという錯覚に陥る。
 
みんな、この事件は己にとってどの程度の事件なのか。
この事件によって己の身体に何か変化が起こるのか。
黙っているけど、各々のモノサシで量ったりしながら
悲しくないのに。悲しがったりする。悲しいことなのに。
悲しがらなかったりする。だから、放火ですら、あたかも
そこいらのいじめ感覚でやってしまうという麻痺っぷり。
 
あー病んでいる。世の中病んでいる。